
今回は超難問歴史クイズ問題を紹介します。
以前に「歴女」という言葉が流行語大賞にノミネートされたように、歴史というのは年代に関係なく興味を持たれる題材だと言えます。
最も多く興味を持たれているのは戦国時代ですが、日本は史実として後世に残されている内容が多いので、どんな時代でも興味深い話は尽きないでしょう。
そんな歴史には一般的に知られている内容と大きく違っていたり、有名な人物の逸話でも知らないことが幾つもあります。
自分の見識を増やしてもいいですし、会話の中のうんちくで披露しても面白いのが歴史ですので、新たな発見を感じてみて下さい。
それでは問題へ。
目次
超難問!!おもしろい歴史クイズ問題【前半10問】
第1問
戦国時代でも戦を起こすには大義名分が必要であり、相手が邪魔だからでは理由になっていませんでした。
徳川 家康は徳川幕府を樹立しましたが、まだ豊臣家に従う大名が多かったために大阪冬の陣を起こしました。
この時の家康が大阪城を攻める最初の難癖に近い大義名分は何だったのでしょうか?
第2問
明治時代にそれまでの藩を廃止して県を置く廃藩置県が行われましたが、そのときに県名が県庁所在地になっていない県となっている県がありました。
その違いには理由があったのですが、その理由とは?
第3問
本能寺の変で織田信長は自刃してその生涯を閉じましたが、その遺体は本能寺が火事で消失したこともあって発見できませんでした。
しかし遺体が見つからなかったのは火事が本当の理由ではありません。
では、その本当の理由とされているのは?
第4問
豊臣秀吉は関白という要職で国を治めました。
鎌倉時代から江戸時代までは国を治めていたのは征夷大将軍になった将軍家ですが、この将軍という地位と関白では、どちらの方が位としては上だったのでしょうか?
第5問
江戸時代に起きた島原の乱はキリシタンであった農民の反乱とされていましたが、海外ではどこの国もキリシタンであった農民の反乱とは解釈していません。
では、海外ではこの島原の乱をどのように見ているのでしょうか?
第6問
自分の直感だけを信じて、根拠となる裏付けがないのに行動するという意味の言葉の語源になった戦国時代の武将とは?
第7問
徳川家康は三方ヶ原の戦いに大敗して脱糞したのは有名な逸話ですが、自ら戦いを仕掛けていながら、戦いが劣勢になって本陣に敵が攻め込んで来ると何度も自殺をしそうになり、それを家臣から制止されたという戦いは?
第8問
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘は有名ですが、この決闘で宮本武蔵は決闘の時間にわざと遅れて佐々木小次郎をじらしたことが勝因とされています。
しかし、実際は別の理由で宮本武蔵は佐々木小次郎に勝ちました。
その最大の理由とは?
第9問
歴史には後世になって脚色されたため、史実に反している出来事が多く存在しています。次の中で本当にあったのはどれでしょうか?
① 徳川光圀(水戸黄門)の諸国漫遊
② 武蔵坊弁慶が義経を逃がすために何本もの矢を受けても立ち尽くした仁王立ち
③ 「犬将軍」と呼ばれた徳川綱吉の犬好き
第10問
「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三は元々は武士ではありませんでした。
武士になる前の職業は何でしょうか?
超難問!!おもしろい歴史クイズ問題【前半の答え】
第1問の答え
答えの解説
諸説ありますが、最初のきっかけは豊臣 秀頼が寺に寄進した鐘に「国家安康」という文字があり、これが家康の文字を分断しているので、これは豊臣家による徳川幕府転覆を狙って寄進したものだという難癖から始まりました。
以後に徳川幕府の豊臣家に対する無理難題を処理していた片桐且元を豊臣家が追放したため、これが徳川家への謀反とされましたが、何でもいいから豊臣家に因縁を付けたいと考えていた徳川幕府が最初に大阪城を攻める口実にしました。
第2問の答え
答えの解説
薩摩藩と長州藩が徳川幕府を滅亡するときに天皇から官軍となる命を受けましたが、そのときに薩摩藩と長州藩の味方になった地域の藩には県名がそのまま県庁所在地になり、幕府側についた藩は県名が県庁所在地になりませんでした。
第3問の答え
答えの解説
本能寺は寺でしたがその地下部分は弾薬庫になっていて、織田信長は明智光秀に攻め込まれて自分の首が取られるよりは自刃する道を選択したのですが、その方法は弾薬庫に火を放って爆死することでした。
遺体がみつからなかったのは、爆発で体が粉々に吹き飛んだからだという説があります。
第4問の答え
答えの解説
征夷大将軍とは武士の頂点に立つ者を天皇が任命するときに与えていた役職です。
関白とは天皇が成人になっていても、その天皇を補佐する役目を担っていて、天皇と共に合議して国を統べていました。
実質的には将軍家が国を統治していましたが、名目上は天皇がすべきことを代わって行っていただけですので、実際に天皇と共に国を統治する職に就いていた豊臣秀吉の関白の方が位としては上になります。
第5問の答え
答えの解説
天草四郎を頂点とする約三万人の農民が原城という城に立てこもりましたが、特に一揆などの反乱は起こしていません。
この島原の乱は徳川家光が幕府ではなくキリスト教を信じているキリシタンに対して、そのような考え方は絶対に許さないとするキリスト教信者への弾圧でした。
以後、徳川幕府はキリスト教を徹底的に排除しようとします。
第6問の答え
答えの解説
その言葉とは「ヤマカン」であり、この言葉は武田信玄の軍師であった山本勘助から誕生した言葉です。山本勘助は自分の直感だけで作戦を立案するところがあり、大成功するときもあれば大失敗することもあったそうです。
第7問の答え
答えの解説
その戦いとは大阪夏の陣です。最初は優勢でしたが、真田幸村らが本陣に攻め込んでくると、また負けると思って何度も自殺しようとして、それを家臣から止められました。
第8問の答え
答えの解説
この決闘の時に佐々木小次郎は60歳を越えた当時ではかなりの高齢な老人であり、それに対して宮本武蔵は20歳の若者でした。佐々木小次郎は若い頃は有名な剣豪でしたが、やはり老人では立ち行かなかったということです。
第9問の答え
答えの解説
正解は『②武蔵坊弁慶が義経を逃がすために何本もの矢を受けても立ち尽くした仁王立ち』
実際の史実にあるのは武蔵坊弁慶の仁王立ちです。これは急性の死後硬直が起きたために、通常では立ち尽くせないのですが立っていられたのです。徳川光圀は江戸と水戸の行き来くらいしかしておらず、諸国漫遊はしていません。徳川綱吉は犬を守るために生類憐みの令を公布したのではなく、それほど犬は好きではありませんでした。
第10問の答え
答えの解説
斎藤道三は油の行商をしていて、その行商で美濃にやってきました。そこで美濃の武士の一人に見いだされて家臣になり、その武士の家を乗っ取ってから美濃の領主を次々に倒していくことで自分のものにしたのです。
続いて後半です!!
超難問!!おもしろい歴史クイズ問題【後半10問】
第11問
江戸時代にあった「士農工商」は何を意味した言葉でしょうか?
第12問
忠臣蔵の赤穂浪士の中心人物であった大石内蔵助と堀部安兵衛は、吉良家に討ち入る前は討ち入りで共闘できるような関係ではありませんでした。
どのような関係になっていたのでしょうか?
第13問
平安時代から江戸時代まで武士の頂点であった征夷大将軍になるには天皇からの任命が必要であり、そのためには武将としての功績と共に公家としての冠位が必要でした。
有力な武将は全て天皇から冠位を授かっていましたが、征夷大将軍にまでなるには冠位の他に公家との関係が重要視されていたのですが、この公家との関係とは何でしょうか?
第14問
正室が絶世の美女と名高く、その妻を見ていたという理由で城に来ていた庭師を斬り殺した武将は?
第15問
関ケ原の戦いで敗れて東軍に捕らえられた石田三成が処刑される時、最後の選別で首切り役の武士に水が欲しいと所望しますが、水を持っていなかったので干し柿を代わりに差し出されましたが、それを石田三成は食べませんでした。
その時に食べない理由で述べた内容は?
第16問
豊臣秀吉にはいくつもの逸話がありますが、その中で本当の史実は何でしょうか?
①大阪城に金箔で張り巡らせた黄金の茶室を造った
②岐阜城を攻略する時に要所であった墨俣に一晩で城を造った
③織田信長の草履を懐で温めた
第17問
織田信長が築城した安土城には織田信長が御神体としたものが安置されていました。
それは通常なら御神体には不向きなものなのですが、それは何だったのでしょうか?
第18問
直江兼続の兜には「愛」という文字がありましたが、この「愛」の意味とは何でしょうか?
第19問
朝鮮出兵を命じられた伊達政宗は、この戦いにあまり乗り気ではありませんでした。
そんな戦いで自分の家臣が傷つくのが嫌だった伊達政宗が、自分の兵を安全な場所に配置してもらえるように考えて行ったこととは?
第20問
「薩長同盟」はそれまでの嫌煙の仲であった両藩を和解させたものですが、この薩長同盟を行った主旨は何だったのでしょうか?
超難問!!おもしろい歴史クイズ問題【後半の答え】
第11問の答え
答えの解説
「士農工商」は身分制度ではなく、日本にいる人々を職業で言い表した言葉です。武士は別にして、「農工商」の間には明確な身分の違いは存在していませんでした。
第12問の答え
答えの解説
堀部安兵衛は吉良家への討ち入りを行おうとしない大石内蔵助に腹を立て、暗殺を企てていました。討ち入りがもっと延びていたら、大石内蔵助は堀部安兵衛らによって暗殺されていた可能性があります。
第13問の答え
答えの解説
征夷大将軍になるためには、有力な公家の子孫であることが大切になっていました。特に「源平藤橘」の公家の子孫であることが必要であり、そのために戸籍を買ったりして無理やり子孫だと言い張っていました。「源平藤橘」とは公家の源氏、平氏、藤原氏、橘氏を意味していて、公家で有力な一族でした。
第14問の答え
答えの解説
細川ガラシャを正室に持つ細川忠興です、忠興はガラシャをとても愛していて、城の庭の手入れに来ていた庭師がガラシャを見たという理由だけで斬り殺してしまいました。相当なやきもち焼きだったようです。
第15問の答え
答えの解説
「柿は痰の毒があるのでいらない」と言いました。これから死ぬ者が口にするにはおかしい返答に周囲の人々は笑いましたが、「大志を抱く者は最後まで命を惜しむものだ」と言い放ったと言うことです。
第16問の答え
答えの解説
①本当です
②短期間で建てたのは本当ですが、一日で建てたわけではありません
③完全に後世になって作られた話です。実際にそのような行為はしていません。
第17問の答え
答えの解説
「盆山」というどこにでもある庭石を御神体にしました。神に祈るのではなく、自分の実力しか信じていなかったので、御神体は何でも良かったようです。
第18問の答え
答えの解説
慈愛などの愛を示したわけではなく、「愛染明王」という戦いの神様を御神体にしたことを表しています。直江兼続が使えた上杉家の上杉謙信が、毘沙門天を守護神として「毘」の文字を表した兜に由来しているとされています。
第19問の答え
答えの解説
自分の兵にとても派手な服装をさせました。派手好きな豊臣秀吉はこの服装が気に入り、被害が起きにくい本陣の警備に伊達政宗の兵を当てました。
第20問の答え
答えの解説
薩長同盟は討幕を目的にして行われたものではなく、「禁門の変」で朝敵になってしまった長州藩を復権させるため、薩摩藩が協力するという意味で行われた同盟です。その時に結ばれた約束事には幕府の転覆については全く触れておらず、以後に武闘派であった西郷隆盛の意見などから成り行きで討幕を行うことになったのです。
これで超難問歴史クイズは終了です。お疲れ様でした!
いかがだったでしょうか?
歴史というのは為政者によって書き換えられたり、後に新しい証拠が出たりして、何度も書き換えられています。
歴史というのはどんな有名な人物であっても所詮は人間が起こす出来事なので、そこには人間臭さや、史実で伝えられている内容と違っていたりするのは当たり前なのです。
現在広く知られていて事実だとされていることも後世になると間違っているかもしれません。
そんな危うさを持っているからこそ、歴史というのは面白いのでしょう。